はじめに

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プロローグ

映画は,1895年12月28日に,リュミエール兄弟がパリ・キャプシーヌ通りのグラン・カフェにおいて映画を上映した時に誕生した。上映には,弟のルイ・リュミエール(1864-1948年)が発明したシネマトグラフと呼ばれる機械が用いられた。技術としての映画はその数年前にトーマス・エジソン(1847-1931年)によって発明されたといわれるが,映画が,技術というよりは,上映されることによって何かを表現する芸術の一つだとすれば,観客の前で上映された1895年を映画誕生の年だと考えるのが妥当であろう。そして,今日までのおよそ100年の間にさまざまな映画がつくられた。

一方,建築は,始めての建築らしい建築が古代エジプト時代のピラミッドだったと考えれば,5000年以上の歴史をもっている。この5000年の間に,建築はさまざまな空間を表出してきた。さまざまな時代の空間の概念がその時代の建築を生み出してきたともいえるし,さまざまな時代の建築の様式によってそれぞれの時代の空間が記録されてきたともいえる。

映画と建築はまったく異なる歴史と技術をもつものであるが,しかし,そこに表れる空間にはある種のアナロジーが存在する。5000年以上の建築,そして建築の集合である都市の歴史の中の空間は,100年余り歴史しかもたない映画の中でさまざまに表現されてきた。すなわち,5000年の建築・都市の空間は,100年の映画の中に塗り込められてきた。

このホームページは,さまざまな建築・都市の空間が,どのように映画に表現されてきたかを概観することを試みる。

0-1. 映画による空間の再現・引用・変形

映画には,過去の歴史を再現した時代劇が少なくない。たとえば,『十戒』(1957年),『クレオパトラ』(1963年),『スパルタカス』(1960年),『薔薇の名前』(1986年),『グラディエーター』(2000年),『トロイ』(2004年)などなど,個々の映画タイトルをあげるまでもなく,過去の建築・都市は映画の中に再現されてきた。

このホームページでも時代劇としての映画を参照はするが,取り上げる映画を時代劇に限定しているわけではない。そもそも,時代劇であっても,映画が忠実に時代を再現しているとは限らない。映画において,時代は,誇張され,歪曲され,再構築されている。

 

当然のことであるが,現代劇にも歴史的な建築・都市が登場する。現代劇に現れる建築・都市は,過去のどこかの時点で建設されたものの現代の姿である。たとえば,現代のイギリスのスパイが活躍するアクション映画として有名な『007(ジェームス・ボンド)シリーズ』には,アブ・シンベル神殿(エジプト),ハギヤ・ソフィア(トルコ),メテオラ(ギリシャ),ヴェネツィア(イタリア),サンクト・ペテルブルグ(ロシア)などの世界遺産にも指定されている歴史的な建築・都市が数多く登場する(それらの一部は劇中で破壊されたりもする)。『ナショナル・トレジャー』(2004年)や『ダ・ヴィンチ・コード』(2006年)なども,現代の建築から過去の歴史を探る物語だ。これらの現代劇には,過去の建築・都市が映画的コンテクストの中で引用・活用されている。

 

また,映画は建築・都市を変形して描くことがある。何がどう変形されていると考えるかは解釈によることになるが,映画が自由につくり出す建築・都市は,実在する建築・都市そのものではなく,それらに類似した何かであることが多い。逆にいえば,映画がつくり出す自由な建築・都市は,実在の建築・都市そのものではないとしても,まったく新奇なものではなく,実在の建築・都市と何らかの類似性をもつことが多い。

たとえば,『スターウォーズ・エピソード1/ファントム・メナス』(1999年)に描かれたポッド(宙に浮く乗り物)のレースシーンは,古代ローマ時代のユダヤ人=ベン・ハーの波乱の人生を描いた『ベン・ハー』(1959年)に描かれた競馬のシーンと驚くほどよく似ている。『スターウォーズ』は,空想の世界を舞台にしたSF映画であるから,現代の高度なVFX(Visual Effect,視覚効果)を駆使するならばどんな世界も表現可能であるはずだと思うのだが,実際に描かれているのは「いつか見た空間」である。

ガメラ2/レギオン襲来』(1996年)に描かれたガメラは,古代エジプト時代におけるピラミッドのような象徴性を想い起こさせはしないだろうか? 『燃えよドラゴン』(1973年)が描いたブルース・リーの動作は,身体的プロポーションに基づく古典的建築の美学を想い起こさせはしないだろうか? あるいは,『バットマン』(1989年)における建築の高さを使ったアクションシーンの数々は,天空へ向かう形態を建築化したゴシックの空間を想い起こさせはしないだろうか?

映画は,それが創作物である限り,常に新しい表現を求める宿命をもっている。しかし,人間は知っていることしか描けない。だとすれば,その描き方の追求にこそ映画創作の意味がある。同じものを別の方法で描くことは何ら咎められることではない。時代劇が過去の時代を別の方法で描いたものであるのと同様に,歴史的な様式や事物を引用したり変形したりしながら映画の中に描くことはありえるべき映画表現の手法だといえる。

 

0-2. タイムテーブルと空間の配列

映画はカットとシーンから構成される。カットは連続するフィルムの単位であって,映画の撮影はカットごとに行われる。シーンはカットの構成によって組み立てられる物語の単位である。たとえば「恋人が出会って会話をする」というシーンは,2人が出会う場所を写すカットや,2人をフレームに収めるツーショットや,それぞれの表情を写すカットなどから構成されるであろう。それぞれのカットは,バラバラに撮影され,編集によって一つのシーンが構成されるのが映画の一般的な作法である。「2人が出会う場所」は街中でロケされるかもしれないが,表情のクローズショットはスタジオで撮影されるかもしれない。連続する2人の会話は,別の日に撮影されたカットの連続であるかもしれない。

さて,映画は2時間前後の長さであることが多い。そして,長文の文章が章や節によって構成されるように,映画は多数のシーンによって構成される。シーンとは表現上の場面のまとまりのことを指す。映画をシーンに分解して見ると,その映画のシーン構成が確認できる。

映画の空間表現には4つのタイプがあるといえる。映画のシーン構成を分析すると,4つのタイプの特徴が確認できるからである。本書では,4つの空間表現のタイプを〈配列空間型,単一空間型,移動空間型,挿入空間型〉と呼ぶことにする。

 

表0-1は『007/私を愛したスパイ』(1977年,ルイス・ギルバート監督)』のシーン構成を示している。

私を愛したスパイ

 

このホームページでは,このようなシーン構成を示す表をタイムテーブルと呼んでいる。このタイムテーブルを見ると,潜水艦,モスクワ,アルプス,カイロ,ピラミッド,砂漠,ルクソール神殿,アブシンベル神殿,サルディニア,タンカー,秘密基地などのシーンによって映画が構成されていることがわかる。

タイムテーブルにおける「タイム」は映画の時間軸を表している。『007/私を愛したスパイ』は「0:00:00」から映画が始まり,およそ2時間後の「2:03:45」からエンドタイトルが流れ始める。時間の経過と共にシーンが切り替わるが,タイムテーブルの「場面」は,各シーンがどのような空間(場所)で展開しているかのメモである。このメモは必ずしも客観的なものとはいえず,作者の判断によるものではある。しかし,厳密に客観的とはいえないまでも,映画から場面を抽出するためのデータになりえる。

表0-1には,DVDのチャプターを並記している。DVDにおけるチャプターもシーンのまとまりであるから有意なデータである。チャプターの作り方は恣意的で(それぞれのDVDによって異なっていて),必ずしもチャプターによって映画を空間(場所)に分解できるわけではないが,それでも大いに参考になる2。

 

0-3. 配列空間型の映画

イギリス人スパイのジェームス・ボンドの活躍を描く『007シリーズ』は,シーンの積み重ねによって物語を構成する典型的なアクション映画である。ボンドは,シーンごとに事件の手がかりを手に入れたり,美女(ボンドガール)に出会ったり,敵の手下をやっつけたり,たまには敵に打ちのめされたりするのだけれど,007シリーズは,ぞれぞれのシーンが世界各地に分散しているという特徴をもっている。

『私を愛したスパイ』の前半には,ボンドが事件の手がかりを見つけていく舞台として,カイロの邸宅,ピラミッド,砂漠,ルクソール神殿,アブシンベル神殿などのエジプトの個性的な空間が登場する。これらは世界遺産に指定された歴史的にも貴重な空間である。

『私を愛したスパイ』に見られるように,全体がさまざまに分散する空間の配列によって構成される映画のタイプを〈配列空間型〉と呼ぶことにする。『私を愛したスパイ』だけではなく,007シリーズはシーンの積み重ねによって物語が構成される典型的な映画である。それぞれのシーンの役割を明確にするために次々に場所が変化し,そして,それぞれのシーンは特徴的な空間を舞台とする。

アクション映画には,007シリーズと同様の〈配列空間型〉のパターンをもつものが多いが,〈配列空間型〉に分類可能なのはアクション映画に限らない。たとえば,『グラン・ブルー』(1988年)は限りなくロマンティックな映画であるが,主人公のダイバーが世界各地の海をかけめぐるという意味で,007シリーズと同様の〈配列空間型〉映画だといえる。

 

0-4. 単一空間型の映画

比較のために,名探偵ポワロが密室殺人のトリックを解き明かす『ナイル殺人事件』(1978年,ジョン・ギラーミン監督,アガサ・クリスティ原作)を見てみよう。この映画には,『私を愛したスパイ』と同じく,エジプトの世界遺産が登場する。

タイムテーブルを表0-2に示す。

ナイル殺人事件

表0-2を見ると,この映画の前半は,『私を愛したスパイ』同様に,エジプト建築が分散して描写される〈配列空間型〉であることがわかる。この前半に,ギザのピラミッド,ルクソール神殿,アブ・シンベル神殿が登場する。しかし,「0:51:24」からの後半の舞台はナイル川上のボート内部に限定される。キャビン,サロン,デッキなどボートの内部での空間の分散は見られるが,建築(ボート)を超えての空間の移動は見られない。その意味で,この映画の後半は〈単一空間型〉である。

すなわち,『ナイル殺人事件』では,〈配列空間型〉である前半と〈単一空間型〉である後半の建築・都市の空間描写の対比が特徴的である。後半は,密室殺人が行われた以降の物語が展開する部分であるから,〈単一空間型〉であることは映画的な必然である。ちなみに,『私を愛したスパイ』も後半の「1:25:14」からのシーンは敵の秘密基地であるタンカー内に固定されているから,〈単一空間型〉の部分もある。

 

実は映画には,全編が〈単一空間型〉であるものが少なくない。全編80分が1シーン(擬似的には1カット)で構成された殺人劇として有名なアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』(1948年)は極端な例としても,雪に閉ざされた休業中のホテルが舞台となる『シャイニング』(1980年,スタンリー・キューブリック監督),テロリストに乗っ取られた超高層ビルが舞台となる『ダイハード』(1988年,ジョン・マクティアナン監督),宇宙船内部での乗組員とエイリアンとの格闘を描いた『エイリアン』(1979年,リドリー・スコット監督)などなど,ほぼ全編を通しての〈単一空間型〉映画は数多い。

殺人事件の評決をめぐる12人の陪審員の議論を描いた『十二人の怒れる男』(1957年,シドニー・ルメット監督)は裁判劇の傑作だった。カメラが裁判所の外にあるのは冒頭とラストの1カットずつのみで,他のシーンはすべて室内だ。そのほとんどは陪審員室で,ごく一部に法廷と陪審員室に付属するトイレのシーンがあるだけだ。殺人事件の顛末,陪審員の人生と偏見,すべてが密室内での議論に封じ込められている。ヘンリー・フォンダが演じた陪審員8号が,最後に名前を名乗って他の陪審員の別れを告げるラストシーンが印象的だった。この映画の和製パロディーである『12人の優しい日本人』(1991年,中原俊監督)も,オリジナル同様の〈単一空間型〉映画である。

 

0-5. 移動空間型の映画


〈配列空間型〉とはやや似ているが〈単一空間型〉とは対照的なタイプが〈移動空間型〉がある。〈移動空間型〉というのはいわゆるロードムービーのことで,映画の展開がある地点から別の地点へと連続する映画のタイプである。

先に,〈配列空間型〉+〈単一空間型〉の例として『ナイル殺人事件』を挙げたが,しかし,この映画の「0:27:06」は,空間はナイル川を遊覧するカルナック号によって連続して移動する。その意味では,『ナイル殺人事件』は〈移動空間型〉の映画ともいえる。

 

バニシング・ポイント』(1971年,リチャード・C・サラフィアン監督)は,1台の車がコロラド州からユタ州とネバダ州を抜けてカリフォルニア州へと疾走するロードムービーの傑作だった。車の運び屋コワルスキーは劇中の「0:23:30」にデンバーで一仕事を終えるが,翌日の15:00までにサンフランシスコまで戻れるかどうかの賭をする。映画の冒頭に描かれるカリフォルニア州の荒涼とした光景に向かって,コワルスキーの車は消えていく(バニシングしていく)。

イージー・ライダー』(1969年,デニス・ホッパー監督,ピーター・フォンダ主演)は,アメリカの大地を移動するバイクを描きながら,若者のリアリティと当時の社会の矛盾を描いた問題作だった。スティーヴン・スピルバーグの監督デビュー作である『激突』(1972年)も,カーアクションを交えたロードムービーの大傑作だった。

幸せの黄色いハンカチ
幸福の黄色いハンカチ想い出のひろば(北海道夕張市)

山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)は,スポーツカーで旅をする軽薄な若者=鉄也(武田鉄矢),鉄也に軟派された朱実(桃井かおり),網走刑務所で刑期を終えたばかりの勇作(高倉健)の3人が網走から夕張へと向かうロードムービーだった。現在の夕張市には「幸福の黄色いハンカチ広場」があり,元炭鉱夫の宿舎が映画の記念館となっている(写真)。

同じく山田洋次監督の『家族』(1970年)も,一家5人が長崎県から北海道へと移住するために列車を乗り継いで旅をする姿を描いたロードムービー。1970年に大阪で開催された万国博も登場し,高度成長期の日本列島の姿が描かれていた。

その他にも,ロバート・デ・ニーロが演じたバウンティハンター(賞金稼ぎ)と心優しい犯罪者の逃避行を描いた『ミッドナイト・ラン』(1988年,マーティン・ブレスト監督),潜水艦のソビエトからアメリカへの逃亡を描いた『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年,ジョン・マクティアナン監督,ショーン・コネリー主演)などが記憶に残っている。

ビートたけし演ずる遊び人と母親を探す小学生の一夏の冒険を描いた『菊次郎の夏』(1999年,北野武監督)は,浅草(東京)から豊橋(愛知)へと向かう異色のロードムービーだった。若き日のキューバ革命の英雄=チェ・ゲバラが,アルゼンチン・ブエノスアイレスから南アメリカの北端=ベネズエラのグアヒラ半島を目ざしカラカスまでを旅する姿を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2003年)も,空間の連続的な移動をベースにした〈移動空間型〉の傑作だった。

 

0-6. 挿入空間型の映画

もう一つ,〈配列空間型〉の特殊な場合として,特定の空間が短いカットによって一瞬だけ描かれる〈挿入空間型〉といえる映画がある。

たとえば,火星人襲来を描いた『マーズ・アタック』(1996年)では,パリ・エッフェル塔(1:23:07〜36),ロンドン・ビッグベン(1:25:56〜26:09),インド・タージマハル廟(1:26:27〜39および1:40:40〜53),イースタ島・モアイ像(1:26:40〜49)などの世界遺産が火星人に攻撃される短いカットが挿入され,火星人襲来が地球全体で起こっていることが描かれている。

〈挿入空間型〉は,地球全体に異変が起こるパニック映画によく見られる空間表現である.
●『インディペンデンス・デイ』(追記予定)
●『ボーン・アイデンティティ』(追記予定)

 

0-7. 映画への旅

ローマを訪問中の某国の王女=アン(オードリー・ヘップバーン)が公務に縛られた退屈な日常を逃れ,アメリカ人新聞記者=ジョー(グレゴリー・ペック)と知り合いながら,ローマの町を冒険する1日を描いた『ローマの休日』(1953年,ウィリアム・ワイラー監督)は,ローマを描いた傑作映画だった。『ローマの休日』には,さまざまなローマの名所が登場する。さまざまなローマの名所が配列するという意味ではこの映画は〈配列空間型〉の映画といえるが,一方,この映画は全編を通じてローマという鮮明なイメージをもつ町を描いているという意味では,この映画を〈単一空間型〉の映画とみることもできる。いずれにしても,この映画を見た後にはローマの町の風景が鮮明に記憶に残るのではないかと思う。

しかし,たとえば『007シリーズ』のようなアクション映画を見た後に,その背景として映る都市や建築はどれほど記憶に残るだろうか? 空間がバラバラに配列する〈配列空間型〉の映画では,映画が描いた空間は記憶に残りにくいのではないだろうか? そもそも映画に描かれた都市や建築を一つずつ記憶していく必要はなく,映画はおもしろければそれでいいのだろうと思う。『ローマの休日』が描いたローマも映画的なローマであるに過ぎず,現実のローマとはいえないはずだ。

 

それでも,映画には都市や建築が映っている。そして,私たちはさまざまな都市や建築の中に生き,そして都市や建築は歴史をもっている。

タイムテーブルを意識して映画を分解してみたり,あるいは,〈配列空間型,単一空間型,移動空間型,挿入空間型〉といった映画のタイプを意識すると,映画に描かれたさまざまな都市や建築に気がつくことができる。本書は,映画に描かれたさまざまな都市や建築に気がつくことを目的としている。

また,本書は,その都市や建築について考えてみることも目的としている。先に述べた「再現,引用,変形」という映画の空間表現の手法を意識しながら,映画に描かれた建築・都市を概観していきたいと思う。

 

映画を見ることは旅をすることに似ているのではないかと思う。人は旅をして建築や都市を訪れることによってその歴史を理解する。今日の建築や都市の姿にはなぜそうなったのかという歴史が塗り込められているからである。旅を通してさまざまな建築や都市を訪れ,人類がこれまでに築いてきた文化に触れることは,何よりもおもしろい体験だと思う。

映画を見ることには,実体験である旅ほどに建築や都市の実像に触れる体験ではないだろうとは思う。ヴァーチャルな(架空の)表現には体験としてのリアリティはないかもしれない。しかし,ヴァーチャルはリアルを触発すると思う。リアルな経験だけではなく,知識を得たり想像をめぐらすことで人間の感性は拡大するはずだ。あるいは,ひょっとすると,映画が描くヴァーチャルな表現こそが,ものごとの本質を垣間見せてくれることもあるのかもしれない。

ヴァーチャルとリアル,あるいは映画と旅の優劣を比較することに意味があるはずはなく,両者は補完し合う(補い合う)ものであるはずだ。かつて見た映画を思い出すことによって旅がよりおもしろくなることもあるだろうし,映画を見ることが旅をしたいと思うきっかけになるかもしれない。そういった意味で,映画はもうひとつの旅だろうと思う。

 

ところで,旅はトラブル。旅はさまざまな困難を伴う。また,多大な費用と時間を捻出しなければ旅は成立しない。旅をすることに比べれば,映画ははるかに気楽な体験である。旅の途中で出会った困難こそが旅の醍醐味であり,後から振り返れば貴重な体験であることは少なくないだろうが,実際に大きな困難,たとえば犯罪に巻き込まれたりすれば大変な事態となる。

でも映画ならば殺人も強盗もなんでもあり。映画の中では建物や自然が破壊されたり動物が傷つくこともあるが,本質的にすべては演出であるはずだ(ドキュメンタリーという分野では自然が破壊されたり動物が傷つくこともあるかもしれないが,それは映画が原因で起こることではない)。映画は気楽な存在である。しかし,気楽であるが故に,ある種の本質に気づかされることもある。映画においては,殺人や強盗は目的であるはずはなく,何かを描くための手段=表現である。

ある人にとっては「悪い映画」だったり「見ると不快になる映画」という映画も存在するだろうと思う。 一部の人にとって見ると不快になることが多い映画のタイプは血が飛び散るホラー映画であろうか?

たとえば,若者による殺人ゲームを描いた『ファニーゲーム』(1997年,ミヒャエル・ハネケ監督)は,カンヌ国際映画祭にて,「ショッキングな場面あり」という警告付きで上映され,実際,不快感をおぼえて途中で席を立つ人が続出した映画だといわれている。あるいは,アメリカ・テキサス州で起こったチェーンソー(のこぎり)による殺戮を描いた『悪魔のいけにえ』(1974年,トビー・フーパー監督)は,その残酷な描写のために,全米各州で上映が禁止されたといわれている。これらの映画は,一部の人にとっては不快な映画だったり,見るに耐えない残酷な映画だったりしたのだろうが,一方で,その芸術性が高く評価された映画でもある6。

 

このホームページに登場する映画のジャンルは多岐にわたっている。サスペンスもあればホラーもある。恋愛映画だってある。その中にはすべての人にはオススメできないものもあるが,そんな映画が一部の人にはぜひともオススメしたい映画であることもある。

とりあげた映画は,基本的には,筆者が,建築的・都市的な空間を描いた映画として特筆に値すると考えたものである。その多くは,少なくとも平均以上のおもしろさをもつ映画であると思う。とはいっても,映画のおもしろさにはばらつきがあるし,また,映画がおもしろいかおもしろくないかは主観によるところが大きいとも思う。筆者の経験としては,見終わった後に「見なくてもよかった」と感じるダメ映画を見てしまうこともあるのだが,そんな映画のことは忘れてしまうことが多いので,このホームページには登場していないと思う。

歴史そのものの解説がこのホームページの目的ではないが,このホームページの構成は,歴史の追うような順序でさまざまな建築・都市を取り上げている。「映画への旅」が,さまざまな建築・都市の歴史性(歴史の中での広がり)と場所性(今日の世界の中での広がり)をめぐる冒険になってくれたらいいなあと思う。